中国史を学べるおすすめ書籍『一冊でわかる中国史』〜中国史をざっと振り返ろう

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大人になると、誰しも急に世界史を学び直したくなる時期って来ますよね。

特に中国史について学び直したいと思っていたところ、図書館でこんな本を見つけました。

タイトル一冊でわかる中国史
監修者岡本 隆司
出版社河出書房新社
発売日2020.08.21
価格定価1,870円(本体1,700円)

面白くて引き込まれる読みものというよりは、かなり教科書チックな本です。

基本的な事項を全部押さえつつ、長い歴史を一冊にまとめようとすると、どうしてもこういう形式にはなるよね

とはいえ、この本を読破することで高校の世界史Bの記憶が戻ることはもちろん、中国史について体系的に知識を得られます。

本記事で、この本の面白かったポイントをつまみ食いしてみましょう。

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目次

「商人」の語源は殷王朝にあり

殷墟 出典:世界史の窓

中国で確実に存在した王朝の中では最古の王朝、「殷」。

傲慢な性格で、「酒池肉林」の宴に明け暮れたとされる紂王が治めた殷は、中国では「商」と表記されます。

紂王が討たれ殷が滅亡してからは、殷の民は全国に散り、交易で生計を立てるようになりました。

これが「商人」の語源になったといわれています。

王朝が変わることを「革命」という

兵馬俑 出典:世界遺産オンラインガイド

堯から舜のように位を譲ることを「禅譲」

夏から殷、殷から周に変わったときなど武力で既存の支配者を追放することを「放伐」といいます。

「禅譲」と「放伐」いずれの場合であっても、「天(あらた)める」として「革命」と呼んでいます。

本来国を治めるよう「天命を受けた」天子を殺したり追放したりすることは許されません。

しかし、天子が暴君で、天子の資格を失ったとき、天はあらたに徳の高い王に命じて天下を治める資格を与えるとされます。

これは武力による王朝交代の歴史を正当化するための考え方で、放伐された天子は無能だったと歴史上に残りがちである理由です。

勝った方が正義として歴史には残りますからね。後からなんとでも言えるよね

「China」の語源は始皇帝の「秦」

始皇帝 出典:日経ビジネス

500年以上の戦乱の時代を制して、中国統一を成し遂げた政は、「皇帝」を名乗ります。

王よりも、古代の三よりも偉大だぞという意味が込められているそうです。

漫画『キングダム』の舞台ですね。漫画の連載期間より、政が統一までにかかった実際の期間の方が短かかったらしい(笑)

英語で中国のことを「China」と呼ぶのも、中国のことを昔「支那(シナ)」と表したのも、秦が語源とされます。

始皇帝は中国の統一のほかにも、後世につながる多くの業績を残しました。

  • 諸侯を置かず、中央集権制にして「郡県制」を導入
  • 度量衡(長さや重さの基準)を統一
  • 文字や通貨を統一
  • 万里の長城
  • 兵馬俑

中国発祥の「元号」は、今は日本でしか使われていない

出典:文春オンライン

前漢(中国では西漢と表記される)の武帝は、それまで主流だった道教などを排除し、儒教の国教化を開始しました。

儒教の国教化と強大な軍事力を背景に、この頃から「中華思想」も定着し、中華こそが世界の中心であるという考えのもと「冊封体制」が敷かれました。

初めて「元号」を定めたのも武帝です。「皇帝は時間をも支配する」というコンセプトです。

当時は改元を決めるのも皇帝の権限とされていて、その治世に武帝は何度か元号を変更しました。

明を建国した朱元璋(洪武帝)は、1368年の即位時に「洪武」という元号を定め、一人の皇帝の治世における元号は一つだけとする「一世一元の制」を定めました。

これにより皇帝の呼称は廟号ではなく、元号のあとに「帝」をつけて呼ぶようになります。

一世一元は明治時代以降の日本でも使われるようになりました。

中国では清の最後の皇帝による「宣統」を最後に、1911年に清が滅びて以降使われなくなりました。

初めて北京に都を置いたのは明の永楽帝

洪武帝の死後は、親族の内乱が続いて混乱しました。

それまでの明は江南を主な基盤としていましたが、建文帝を倒した永楽帝は、建文帝の支持者が多かった応天府を避けるとともに、北方遊牧民族を警戒するという理由で北平に遷都しました。

遷都は1421年に完了し、「紫禁城」が置かれた北平は「北京」と改称され、応天府は「南京」と改称されます。

紫禁城、行ってきました!

永楽帝は自分の権威づけのために朝貢国を増やそうとし、大艦隊による「南海遠征」を実施しました。

大艦隊の指揮官となった鄭和はイスラム教徒の宦官で、ヨーロッパ人がアフリカ大陸南端の希望峰に達したより数十年も早くアフリカ大陸に到達し、キリンやサイなどの動物を持ち帰ります。

出費がかさんだため南海遠征は打ち切られますが、これをきっかけに「華僑」と呼ばれる漢人の移民が東南アジア各地に進出。

鄭和という逸材をもっと活躍させていれば、ヨーロッパではなく中国が世界の覇権を握れたのかもしれませんね。
その後ヨーロッパの王室が知的好奇心から、探検や科学に惜しみなく支援しバンバン航海に出た一方、中国の皇帝は陸伝いにぶつかった異民族を攻めて領土を広げることしか興味がありませんでした。
これがその後の中国の明暗を分けたと『サピエンス全史』(多分)で読んだ気がします。

異民族国家「元」と「清」のスタンスの違い

元を建国したフビライ・ハン 出典:Wikipedia

モンゴル民族が支配した「元」と女真族が支配した「清」は、異民族による中国支配という点で立場的には同じですが、スタンスは異なりました。

元は「大元ウルス」と西方の3ウルス「チャガタイ・ウルス(中央アジア)」・「ジョチ・ウルス(ロシア南部)」・「フレグ・ウルス(中東)」の連合体です。「大元(元)」という国号は、儒教の古典の語句に由来します。古典から国号を定めたのはこれが初めてでした。

遊牧民のモンゴル族はすべての軍人が熟練の騎兵で、ムラのない強力な軍事力を誇りました。

イスラム教徒の色目人やアラブ人など、優れた人材をスカウトし、漢人の教養であった儒学は軽視したため科挙を廃止。

日本への侵攻は失敗しましたが、東西を結びつけたモンゴル帝国の貿易網は、経済のグローバリズムの先駆けともいえます。

一方で清は、漢人に対する方針が異なります。

約1億人の漢人に対して女真族は50万人しかおらず、モンゴル帝国のように軍事や財政に優れた外国人の人材もいなかったので、清は漢人の懐柔をはかりました。

「明を滅ぼしたのは李自成であり、清は明の仇を討った」と主張し、清の支配を正当化します。

明最後の皇帝・崇禎帝の遺体を丁重に弔い、李自成の乱で荒れた紫禁城を再建し、引き続き都としました。

漢人の思想である道教や儒教は保護し、明の行政制度や科挙を維持しました。

とはいえ、漢人に譲歩してばかりでは舐められるため、女真族の風習である辮髪を強要します。

辮髪の変遷 出典:Wikipedia

漢人は激しく反発しましたが、辮髪を拒否する者は見せしめとして処刑されました。

中国の時代劇では、男性も長髪ですよね。
儒教を重んじる漢民族は、髪の毛も親からもらった大切な身体の一部なので勝手に剃るのは許されないと考えていました。
辮髪はかなり屈辱的なことだったに違いありませんね

『国性爺合戦』の鄭成功と日本のつながり

国性爺合戦 出典:世界の歴史まっぷ

江南の各地では、明の皇族の生き残りを盟主に掲げる人々が清に抵抗を続けました。

これらの勢力は南明と呼ばれ、倭寇の鄭芝龍と日本人の田川マツの間に生まれた鄭成功もその一員でした。

鄭成功は皇族と同じ「朱」の姓を授けられ、国性爺とも呼ばれます。

ちなみに「爺」は老人の意味ではなく、一種の尊称です。

鄭成功は江戸幕府に支援を求めましたが、江戸幕府は鎖国体制に入っていたため拒否されました。清軍により大陸から追い出された鄭成功は、オランダ軍を駆逐して台湾に政権を樹立します。

日本では鄭成功をモデルにした浄瑠璃の演目『国性爺合戦』が人気を博しました。

同じく南明に仕えた朱舜水は日本に亡命し、水戸藩主の師となり、水戸学が生まれました。

忠君愛国を説く水戸学は、「外国の勢力を倒し、皇室を守る」という尊王攘夷と結びつき、江戸幕府を倒す原動力となります。

荒廃する清 太平天国の乱、西太后

清は財政の悪化やアヘン戦争の敗北によるイギリスへの賠償金で、国民に重税を課します。

貧困層の間で不満が高まるなか洪秀全により「太平天国の乱」が始まり、太平天国軍は南京を一時的に占領しました。

太平天国の乱の舞台になった場所に行ってきました!

清は西洋列強の助けを借りて攻勢し、太平天国軍の指導者争いも発生したことから、この乱は鎮圧されました。

この十数年の内乱により、清の荒廃が加速。

清朝の中堅官僚だった恵徴は、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により病死します。

内乱がひとまず落ち着いた頃、恵徴の娘であり咸豊帝の側室だった西太后が実験を握ります。

西太后は西洋の新技術や軍制を導入する「洋務」を推し進めました。

国内の業者の雇用を確保するために、西太后は軍事費を流用し、北京郊外に頤和園を整備しました。

頤和園でも動画を撮ったよ

帝政の終わり

ここからは、溥儀、李鴻章、袁世凱、孫文、蒋介石、張作霖、毛沢東、周恩来、江沢民、習近平まで聞き馴染みのある名前が続きます。

香港で西洋医学を学んだ孫文は、早くから欧米の思想を身につけました。

皇帝や王侯ではなく、国民が政治を動かす共和政の樹立を目指します。

孫文は日本に亡命し、蔣介石が留学していたという日本繋がりがあり、孫文の妻・宋慶齢の妹である宋美齢を蒋介石が妻に迎えるなど、微妙にリンクしていくのが面白いです。

日本による傀儡政権に巻き込まれたラストエンペラー・溥儀のあたりも興味深いですね。

帝政以降、「辛亥革命」「北伐」「満州事変」「盧溝橋事件」など、ドラマチックで緊迫した歴史が続きます。

盧溝橋事件をきっかけに、日本と中華民国の全面戦争である日中戦争が勃発します。

共産党の紅軍は、国民革命軍第八路軍として組み込まれ、「第二次国共合作」が成立しました。

八路軍共産党員の田漢が作曲した『義勇軍行進曲』が盛んに歌われ、これが現在の中華人民共和国の国家となっています。

打倒日本の歌が今の中国の国歌になっているとは、知りませんでした…!

共和国が樹立されてからの歴史は、この部分だけを一冊にまとめた本を改めて読む方が良さそうですね。

次はこの辺の歴史を掘り下げて勉強してみたいと思います。

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